公正な移行(Just Transition)の全体像:定義からNPOの役割、具体的な取り組みまで
導入
気候変動への対策は、もはや待ったなしの状況です。しかし、その対策が社会や経済にもたらす影響は決して一様ではありません。化石燃料産業からの脱却は、そこに依存する労働者や地域社会にとって、雇用喪失や生活基盤の不安定化といった深刻な課題を突きつけます。このような移行期において、「公正な移行(Just Transition)」という概念が国際社会で注目を集めています。
本記事では、この公正な移行について、その基本的な定義から背景、重要性、関連する概念、具体的な事例、そしてNPOをはじめとする多様な主体が果たすべき役割と最新の動向に至るまで、多角的に解説します。この記事を通じて、気候変動対策と社会公正のバランスをどのように取るべきか、その理解を深め、皆様の実務や活動の一助となることを目指します。
用語の定義
「公正な移行(Just Transition)」とは、気候変動対策を進める中で、社会経済全体が持続可能な方向へと変革する際、そのプロセスで生じる不利益や負担が特定の労働者、コミュニティ、地域、あるいは国に集中することなく、すべての人々が公正に、そして取り残されることなく新しい経済社会に適応できるよう支援する包括的なアプローチを指します。
国際労働機関(ILO)は、公正な移行を「環境的に持続可能な経済へ向かう移行が、雇用を創出し、ディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)を保証し、社会保障を維持し、貧困を根絶し、社会包摂を促進する形で、可能な限り公正で包摂的なものとなるよう確保するための概念」と定義しています。この定義は、環境保護と社会経済的公平性の両立を目指すという、本質的な理念を明確に示しています。
背景・重要性
公正な移行の概念は、もともと労働組合運動の中で、環境規制が雇用に与える影響への懸念から生まれました。特に、石炭産業のような重工業からの脱却が進む中で、労働者の再訓練や新規雇用創出の必要性が強く認識されるようになりました。
国際的な議論では、2015年のパリ協定の採択が重要な転換点となりました。パリ協定の前文には、「移行する労働力のための公正な移行の必要性、そしてディーセント・ワークと質の高い雇用創出の重要性を考慮に入れる」という文言が明記され、気候変動対策における社会的な側面が国際的な枠組みの中で初めて明確に位置づけられました。
今日、気候変動対策は単なる環境問題に留まらず、エネルギー、産業、交通、農業など、社会経済のあらゆる側面に影響を及ぼします。例えば、再生可能エネルギーへの転換は、新たな雇用を生む一方で、化石燃料関連産業の衰退を招き、既存の雇用を失わせる可能性があります。また、炭素税の導入や環境規制の強化は、経済的に脆弱な層に不均衡な負担を強いる可能性も指摘されています。このような変化の中で、公正な移行は、誰もが持続可能な未来の恩恵を享受できるよう、社会の安定と公平性を保ちながら変革を進めるための不可欠な視点として、その重要性を増しています。
関連する概念・用語
公正な移行は、他のサステナビリティ関連の概念とも密接に関連しています。
- SDGs(持続可能な開発目標): 特に目標8(働きがいも経済成長も)、目標10(人や国の不平等をなくそう)、目標13(気候変動に具体的な対策を)などと深く結びついています。公正な移行は、SDGsが目指す「誰一人取り残さない」社会の実現に直接貢献するアプローチと言えます。
- グリーンリカバリー(Green Recovery): 新型コロナウイルス感染症からの経済回復プロセスにおいて、環境に配慮した投資や政策を通じて持続可能な経済成長を目指す概念です。公正な移行は、このグリーンリカバリーの中で、新たな雇用創出や産業構造転換の際に、社会的な公平性を確保するための具体的な指針を提供します。
- 社会対話(Social Dialogue): 労働者、使用者、政府といった主要な社会主体が、共通の関心事について情報交換、協議、交渉を行うプロセスです。公正な移行の実現には、影響を受ける全てのステークホルダーが議論に参加し、合意形成を図る社会対話が不可欠であるとされています。
具体的な事例・応用
公正な移行の原則は、様々なレベルで具体的な政策やプロジェクトに落とし込まれています。
各国・地域の政策事例
- 欧州連合(EU)の公正な移行メカニズム: EUは「欧州グリーンディール」の中で、公正な移行メカニズムを設立しました。これは、特に化石燃料に依存する地域や産業に対し、資金援助、技術支援、能力構築プログラムを提供し、経済の多様化、労働者の再訓練、クリーンエネルギーへの投資などを促進することで、公正な移行を支援するものです。
- カナダの石炭火力発電廃止と公正な移行タスクフォース: カナダは2030年までの石炭火力発電廃止を決定し、石炭関連産業の労働者やコミュニティに与える影響を評価し、支援策を提言するために公正な移行タスクフォースを設置しました。労働者向け技能訓練、早期退職プログラム、新規ビジネス支援などが検討されました。
企業における取り組み
- サプライチェーンにおける配慮: 企業は自社のサプライチェーン全体で、環境規制強化が労働者に与える影響を評価し、サプライヤーと協力して再訓練プログラムや代替雇用の機会を提供することが求められます。例えば、自動車産業が電気自動車へと移行する中で、内燃機関部品製造に従事する労働者の技能転換を支援する事例などがあります。
- 労働者の再スキルアップと再配置: 化石燃料産業に従事していた労働者に対し、再生可能エネルギー産業や他の成長分野で必要とされるスキルを習得するための研修を提供し、再配置を支援する企業も増えています。これは、企業の社会的責任(CSR)の観点からも重要視されています。
NPO・市民社会の役割
NPOや市民社会組織は、公正な移行の推進において極めて重要な役割を担います。
- 政策提言とアドボカシー: 影響を受けるコミュニティの声を代弁し、政府や企業に対して公正な移行を組み込んだ政策や戦略の策定を提言します。
- 影響を受けるコミュニティの支援: 雇用喪失や環境変化によって苦しむ地域住民や労働者に対し、情報提供、カウンセリング、生活支援、技能訓練プログラムへのアクセス支援など、直接的なサポートを提供します。
- 社会対話の促進: 政府、企業、労働組合、地域住民など、多様なステークホルダー間の対話を促進し、共通理解を醸成し、合意形成を支援する中立的なプラットフォームを提供します。
- 研究と情報発信: 公正な移行に関する事例研究、課題分析を行い、その成果を広く社会に発信することで、意識向上と議論の深化に貢献します。
最新動向・課題
公正な移行の議論は、国際会議や国家レベルでの政策決定において、ますますその存在感を高めています。国連気候変動枠組条約締約国会議(COP)では、資金援助や技術移転の文脈で公正な移行が繰り返し言及され、途上国における化石燃料からの脱却支援においてもその原則が適用され始めています。
しかし、公正な移行の実現には依然として多くの課題が横たわっています。
- 資金調達の不足: 特に途上国や経済的に脆弱な地域において、公正な移行に必要な大規模な投資や支援プログラムの資金が不足しています。
- セクター間の認識のギャップ: 化石燃料産業と再生可能エネルギー産業、あるいは政府、企業、労働者、市民社会の間で、公正な移行に対する理解や優先順位にギャップが存在することがあります。
- 具体的な実施メカニズムの確立: 「公正」を具体的にどのように評価し、どのような指標で測るか、また支援策をどのように設計し、実施するかといった、実践的なメカニズムの構築が途上段階にあります。
これらの課題を克服するためには、国際協力の強化、官民連携による資金動員、そして何よりも影響を受ける人々が主体的に参加する包摂的な意思決定プロセスの構築が不可欠です。
まとめ
公正な移行は、気候変動対策を推進する上で、環境的持続可能性と社会経済的公平性を両立させるための不可欠な概念です。地球規模での脱炭素化が加速する中で、この移行プロセスが特定の個人やコミュニティに過度な負担を強いることのないよう、積極的な支援と配慮が求められます。
労働者の再訓練、新たな産業の創出、社会保障の強化、そして地域経済の多角化など、多岐にわたる取り組みが求められる公正な移行は、政府、企業、NPO、労働組合、そして市民一人ひとりが連携し、対話を通じて協働することで初めて実現可能です。NPOは、最も影響を受けやすい人々の声を届け、具体的な支援を提供し、政策に影響を与えるという、かけがえのない役割を担っています。
公正な移行の理念を深く理解し、それぞれの立場から具体的な行動を起こすことが、誰もが安心して暮らせる、持続可能で公正な社会を築くための第一歩となるでしょう。